海ノ口城址

海ノ口城址の写真

海ノ口城は、武田晴信(のちの信玄)16歳の初陣にまつわる勝利はあまりにも有名である。

天文5年(1536)11月下旬、武田信虎・晴信親子は8千余の兵を率いて海ノ口城を攻めた。平賀源心成頼は佐久郡の地侍3千余で弓矢や石礫を投げ、地形を利用したゲリラ戦法で防戦したため落城しなかった。

武田軍は雪が降り佐久特有の強い寒さには勝てず、正月を目の前にした26日帰陣したが晴信は父信虎に願い出て殿となり夜中に取って返し手勢3百余りで海ノ口城を攻め落したのである。

佐久の地侍はそれぞれが年とりに家に帰ったため、ふいをつかれた豪勇平賀源心成頼は討死した。晴信は平賀源心成頼の首・太刀・鎧を父の前に意気ようようとして差し出した。だが信虎は厳しく、城を捨ててきたのは兵法に違うと叱った。初陣の功を賞するよりも武将として成すべきことを教えたのであった。

平賀源心の胴塚

平賀源心の胴塚写真

天文5年(1536)海ノ口城で、平賀源心成頼を討ちとった初陣の武田晴信(のち信玄)は、平賀源心成頼の武力によるその威力に感じ入り、大門峠(現平沢峠)に石地蔵をたて平賀源心成頼をまつったと『甲陽軍艦』『寛永諸家系図伝』に記述されている。その後、これを伝え聞いた旅人が石地蔵を拝み、たむけた石が塚となり、いつとはなしに『平賀源心成頼の胴塚』と呼ぶようになったという。

大剛強の兵者として知られ、70人力の力を有し、長剣を好み、所持する刀の長さは4尺3寸であったと伝えられている。平賀源心成頼の首塚は、須玉町の若神子にある。

武田信虎・信玄親子は、平沢から登った尾根から見下ろすこの絶景を見ながら、佐久郡を手はじめとしてはるか彼方の信濃国を自身の勢力下に取りこむ野望を強く抱いたであろう。

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